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2010年9月16日
「なりたくない大人」を考察する
昨日、久々にランニングをした。
実際には走っている間、ずっと考え事、というか構想ばかりしていたのであまり走ったという感覚はなくて、頭の整理とブレストしにいったような感じだ。
今から行うことの優先順位が整理され、新たなアイデアがいろいろ浮かんだ。
といっても、基本的にはボーっとしているだけである。
目の前にはパソコンもテレビもなくて、耳に音楽だけが入ってくる。
音楽を真剣に聞くわけではないので、基本的には何もしていないのと同じである。
考え事をするとき、頭をクリアにしたときは、このような半分不自由さがあるような状態が一番冴える。
例えば電車での移動。枕元。そして、ランニング。
ある目的に対してその手段を講じているのだが、その手段があまりにも暇すぎて考えざるを得ない状態になるときだ。
なかなか気が向かないと出来ていないランニングだが、そのメリットを実感すると違った取り組み方が出来るのかもしれないと思った昨日だった。
さて、本題はここからになるのだが、走っている最中にこんなことを思った。
「なりたくない大人に自分はなりたくないと思っているが、そのなりたくない大人ってなんなんだ?」
これである。
自分の中で漠然とあるこの「なりたくない大人」というイメージ。
これは子供が生まれてからより意識的になっていて、この「なりたくない大人」にいかになるまいと動いている気がしないでもない。
それは、たぶん自分が子供のときに何らかの大きな影響があったのだと思うがそこを深めるのはまた後にして、この「なりたくない大人」ってなんやねんというところを掘り下げていきたい。
掘り下げるといっても、自分の中でもこの問いに対してある一定の答えが出ている。
走っている最中に、ふと浮かんだ。
「イチローは、このイメージには絶対当てはまらない」
ということである。
もちろん野球がやりたいわけではない。
イチローを深く知っている方なら、野球の成功ではないところに焦点を当てて注目できると思う。
私はそんなにイチローを知っているわけではないのだが、コーチングを学ぶ課程で、このイチローが何度も出てくるのでその焦点を知ることができた。
一言で焦点を当てるべきところを表すと、イチローは「野球が好きだ」という根底の感覚をすべての行動に反映させているということである。
反対な表現を使うと、すべての行動の根底にあるのが「野球が好きだ」ということである。
我々は大人になっていく過程で「他者のニーズ」にこだわってしまい勝ちである。
しまい勝ちというか、社会人として前提として「他者のニーズ」の渦の中にいるようなものである。
そして、我々は「他者のニーズ」と共にこだわってしまうのが「結果」である。
これはどうしても結果で評価されてしまうので仕方がないことであるが、それは他者から見た話で、自分までこの「結果」にこだわってしまうのである。
大げさな言い方で表現をすると「他者のニーズ」を一生懸命考えることで、「自分のニーズ」が置き去りにされてしまっているということである。
一生懸命、何かに取り組んだ。「よしOK!」その後「あれ、俺って何がしたいんだったっけ?」となって、その環境が「何か違うな」とか言い訳を言って逃れてしまうことはよくある話だと思う。
「結果」の話でいうと、結果は自分が100%の要素ではなく、条件、環境によって複雑に出来た産物である。その結果に振り回されることによって、「自分の実感」が置き去りにされてしまっているということである。
例えば「こんなにがんばったけど結果が出なかった」という話をよくしてしまうが、そこには本当に何もなかったのかという自分の実感が二の次になっている。本当は、実は手ごたえが一部ではあったのかもしれない。
いろいろなものに振り回されているうちに結局のところ「自分」がなくなってしまうということかもしれない。
自分のために自分を生かされていないという感じ。
私はこのような大人を「なりたくない大人」としたい。
「なりたくない大人」というより、たいていの大人はこうなっているのが現状だったりする。
だからこそ、というところである。
しかしながら、イチローのような感覚の使い方がネイティブに出来る人は限られている。
何とか自分をマネジメントしていきたいなと感じる。
※以上の内容は、いろいろな人から聞いたイチローの感覚であるので、若干ニュアンスが違うかもしれない。その場合は指摘してください。
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